- 紀元前100年 頃
- 魏志倭人伝前漢が朝鮮半島平壌に楽浪郡を設置、九州で大陸との交易を行う奴国として登場したのが博多であろうと思われる。
- 維体21年 西暦527年 頃
- 磐井の乱/日本書紀御井群(みいのこおり)(現三井郡付近)にて大和朝廷と軍事衝突、朝廷側が勝利した。朝廷は博多湾岸那の津(現天神東北部)に大宰府の前身那津官家を設置した。
- 斉明7年 西暦663年 頃
- 防人/大宰府日本は大陸に興った唐、新羅に対抗し、百済を救援すべく3万人余の援軍を投入した大軍事作戦、白村江の戦いに敗れた。半島からの報復戦に備え、那津官家を内陸(現大宰府)へ移動。防衛線として水城を構築。防衛軍として東日本から召集した防人を配備した。当時、ここ博多一帯は半島との交易で栄え、「海域、土地博(ひろ)く人、物産多し」が博多の語源とされている。
- 延暦23年 西暦804年 頃
- 遣唐使盛んに大陸へ交易を図っていた日本から、第11回遣唐使で最澄と空海が唐へ渡り、2年後空海が帰国、博多にて真言宗東長寺を開いた。のち遣唐使として派遣された菅原道真の進言により遣唐使は廃止されたが、当の道真もその後大宰府へ左遷され没した。味酒安行(道真の弟子)によって祠廟が建立され現在の太宰府天満宮となった。
- 平安・鎌倉 西暦1100年 頃
- 博多商人と日宋貿易平安中期には博多に宋人居留区が形成され、東アジア屈指の国際都市として大陸との貿易は大きく栄えた。平安末期には平清盛によって国内初の人口港「袖湊」が構築された。鎌倉期には更に僧が多くの文化を持ち込んだ。栄西は国内初の禅寺聖福寺を博多に建立、「お茶」の木を植え茶園をつくった。栄西は茶祖と呼ばれ、聖福寺はわが国のお茶発祥の地と呼ばれている。宋の帰化人謝国明が承天寺を建設、受け継いだ聖一国師は帰国後「饅頭」「うどん・そば」を持ち込み、また当時流行していた疫病退治のため施餓鬼棚の上から甘露水を撒いたことが、現在も続く「博多祇園山笠」の起源となった。
- 文永11年 西暦1272年 頃
- 元寇/文永の役元と高麗からなる4万の軍隊が博多を攻撃した。日本軍は元軍の火薬や集団戦に苦戦し大宰府まで退却させられた。押し寄せた元軍は夜間船上に引き上げていたが、襲来した大嵐のため壊滅的打撃を受け撤退した。これを文永の役と言う。
- 弘安4年 西暦1281年 頃
- 元寇/弘安の役鎌倉幕府は防衛線として、博多湾岸に東の香椎から西の今津まで20Kmに及ぶ石築地(いしついじ・元寇防塁)を構築させて待ち受けた。2波に別れ再来した元軍は前回の数倍の規模であったが、第1波攻撃は国軍の奮戦により撃退。退いた第1波はより大規模な第2波と平戸付近で合流した。しかし、再び襲った暴風の為肥前鷹島(現長崎県鷹島)沖にて壊滅した。これを弘安の役と言う。
- 延元・建武から 天正の200年間 西暦1330年から1580年頃
- 日明貿易と大名間の博多争奪戦明との交易で栄えていた博多を、戦国期の大名は競って奪い合い、戦火の絶えることはなかった。当時の博多は1万戸といわれる大都市となっていた。
- 天正15年 西暦1587年 頃
- 太閤町割り国内を平定した秀吉は商都博多を復興。筑前は小早川隆景が名島(現東区名島)に城を築き治めることになった。秀吉は商人による自由都市として武士の居住を禁止し、自治権を大きく認め、発展させようとした。現在の博多祇園山笠の「流れ」も太閤町割りの都市計画に沿ったものである。お陰で現在の博多にも、当時の商人の気概を受け継ぐ気質が脈々と流れている。
- 慶長5年 西暦1600年 頃
- 双子都市関が原の後、家康は国替えを行い、筑前は黒田長政が福崎(現平和台)に築城し福岡と命名した。結果、福岡と言うのは那珂川を挟んだ西側の城下町を指し、博多はそのまま商人の町として那珂川の東側を指す名前となった。政治の福岡、経済文化の博多、双子都市が誕生した。
- 明治22年 西暦1889年 頃
- 福岡市誕生明治期に入り、福岡県は県令第42号によってこれまで博多、福岡とされていた町を統一して福岡市と呼称する事に決定した。収まらない博多住民は翌年「博多市」へ変更の建議を市会(現市議会)へ図るが、投票結果同数の為、議長の1票差で否決。福岡市に決定された。その代わり、当時国鉄の駅名を「博多(はかた)駅」とすることで政治決着を見たのである。

