Column of Spelt with Camera


写真に俳句をつける。

写真に短い文章をつけ、撮影したその時を物語にしてみたい。
これまで写真はそれ自体が完結した存在で、自らがすべてを語る事が出来なければならない、と考えていた。
人生も終盤にさしかかり、あれこれやり残した事が多く、自慢できることとて無い。どれだけ積み重ねても大したことが出来るわけではないが、わずかに興味のあるもう一つ、文章を書いてみたい。殊に俳句や川柳などを学んでみたくなった。
写真俳句という世界があるそうである。
撮りためてきた写真に句を添えることによって、どのような変化が現れるのか。
写真もいただく評価は60%、俳句など駆け出しで20%程度か。 0.6×0.2=0.12 と未完のモノ同士の積は、元の数値を大きく下回る。 
しかし意外な事が起こりそうで、楽しみでもある。


時を止める無限に広げる

出会い

初めてカメラを手にしたのは幼稚園の頃、父が持っていた2眼レフだったことを覚えている。
被写体に向かってお辞儀するようなスタイルも大人っぽくて楽しかったが、撮影するためには何より像が左右逆さまで普段と逆の動きをしなければいけないことの方が面白かった。
マミヤの製品だっただろうそのカメラは、すりガラスのフォーカス・スクリーンに写し出された私の楽しい思い出を、6×6サイズのフィルムに固着してくれた。
その後、オモチャのカメラを何台か買い与えられた記憶があるだけで、その撮影フィルムは全く残っていない。たぶん、分解して壊してしまったのだと思う。

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中学生の修学旅行の前にリコーのオートマチックカメラを買ってもらった。当時はそれらが流行だった。36枚撮りフィルムで、72枚も撮れた。確か父のマミヤは12、3枚しか撮れなかったようだった。
しかし、マミヤとリコーでは、子供心にも出来映えが違って見えた。特別に強請った覚えはないが、父も子供が成長し被写体としての価値を失ったのか、いつしかマミヤは私のモノになっていた。子供が2眼レフを構えているのはあまり見慣れない光景だった。

1眼レフ

高校時代、天文に興味を持った事もあり、天体望遠鏡に取り付けられる1眼レフを親に内緒で購入、それが旭光学のPENTAX S2だった。本当はPENTAX SPを買いたかったのだが、高校生の分際では購入できなかった。
アサヒPENTAX SP。

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1964年、旭光学工業株式会社(現、HOYA株式会社)は軽量でスマートなボディに画期的なTTL露出計を内蔵したカメラ、ペンタックス・スポットマチックを発売。旭光学は、この1台で世界の1眼レフの先駆けとなった。
以後、カメラはPENTAX。結婚して子供が出来、父同様に被写体は妻と子供で満足だった。
独立し仕事が順調だった頃、PENTAX SFXを購入、標準レンズのほかに200mm、500mmなど買い揃え、その被写体は近所で見つけた野鳥になる。犬鳴川に出かけるようになった私はそこで転機を迎える事になった。川の中で転倒し、大切なPENTAXの機材一式を水に濡らしてしまったのだ。
買い換えに際し、Nikonに全て更新した。ちょうどカワセミに出会った時である。前カワセミ期と後カワセミ期では作風も変わった。
買い換えたそのカメラのレンズはNIKKOR600-F4、当時でもおよそ90万円。ボディはF4とF4S。GITZOの三脚と一脚、交換レンズを数本、手製の迷彩ブラインドなど合計25Kgほどを担ぎ、暇さえあれば山の中、鳥を追った。この時の欲に任せた機材の購入癖は、その後の人生に影を落としたと思う。

ディジタル

事業に失敗し、質入出来なかったGITZO三脚を残してすべての機材を失っていたが、友人に助けられ現在の職を得た頃、もう一度カメラを始めた。以前はリバーサルだったので、現像代だけで毎月数万円だったが、今度はランニングコストが低く抑えられるデジタルにした。イメージはフィルムのほうが良いと思っていたが、経済的効果には勝てなかった。ボディはNikonD2H、レンズも数本。まだ600mmは買えない。
順調な頃、CONTAXにZeissのビンテージレンズを装着、FUJICHROME-Velviaで撮影していて、気に入っている写真が数枚撮れた事がある。

被写体は無名の現代美術作家の作品だった。
そのレベルをいまだに超る事が出来ないでいる。
時の淘汰に耐えてきた道具はスゴイもので、腕の悪さを助けてくれるものらしい。
まだディジタルよりアナログのほうが写真としての表現力は優れているように思う。
レンズとフィルム、双方の歴史の重みを感じる。

ハイブライダイズ

写真は、ビデオなどの動画に比べると情報量は少ない。俳句は写真よりさらに情報量が少ない。
しかし、時間と空間をより大きく捕らえる事が出来、表現できるのは俳句ではなかろうか。
17文字、34byteの情報量で、写真数MB、動画数十GBを凌駕する、広がりと奥行き、時の流れ。
それは、情報の発信側・送り手と、受信側・受け手の共有する、膨大な暗黙知データベースの存在抜きには成り立たない。日本に生まれ自然と人との関わりから生まれてきた概念。ひとつのコード・言葉が触発する無限の連鎖。
写真の持つ時を止める物語性と、俳句の持つ制限無しの広がり。
これらを掛け合わせるとどのような色合いが出るのか。
いや、出せるのか。
これから取り組んでみるつもりである。

カメラは大好きな道具だ。特にレンズが好きである。複数の磨かれ、重ねられたガラスの輝きと、コーティング面の角度によって変化する微妙なグラデーションが美しい。思い出のペンタックスレンズには残念ながらカビを生じさせてしまった。今回、特別に購入したのはAF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8G ED。ディジタル専用レンズ。

これから俳句を、と思って以来手帳を探し回った。まず、道具に凝る質なのだ。銀座の伊東屋でイタリア製手帳を買った。一枚一枚が少し厚手でインクの裏写りもしにくく、紙片なども挟んでおけるゴムバンドが付いている。それにプラチナの手帳用ボールペン。 

準備万端となった。

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松尾 芭蕉  Matsuo Basyo

俳聖 松尾芭蕉。現在知られているだけで、芭蕉の発句は約1000句あるといわれており、 51歳まで生きたようである。芭蕉の名は、門人の李下から送られた芭蕉の木を植えたところ、たいそう茂り目立ったことから、庵を芭蕉庵とし自身の俳号としたらしい。当時の日本人の平均的歩速度に比べ異常に早いことと、出生地伊賀の関係から彼を情報収集の隠密とする説もある。
いつの日か映画「ダ・ヴィンチ・コード」のような解説にチャレンジするのも面白いかもしれない。

伊賀の国(三重県伊賀市)生 寛永21年(1644年)ー元禄7年10月12日(1694年10月12日)大阪御堂筋没