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去る104年前の5月末、博多の北方、対馬海峡東方海上にて国家の存亡を賭けた戦闘がなされた。
この戦いに敗れれば、日本はロシアの属領になる恐れが濃厚であった。
日本海海戦である。
連合艦隊旗艦 戦艦三笠(Wikipediaより)
1905年5月27日午前2時45分、哨戒中の「信濃丸」にバルチック艦隊中唯一灯火管制を敷いていなかった病院船「アリヨール」が発見される。
接近した「信濃丸」は多数の灯火管制行動下の艦船を発見、午前4時45分「タの連送」に始まる「敵艦見ユ」を打電。
その電報の転送を受けた連合艦隊旗艦「三笠」では、先任参謀秋山真之中佐が大本営へ向けた電報「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス」の電文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と付け加え、波浪の影響で予定していた水雷戦は不能、砲戦のみで戦う、との意味を込めた。
その1年前、連合艦隊は黄海海戦、蔚山沖海戦の勝利で日本海の制海権を確保。
ロシアを1904年10月15日出航し、ほとんど訓練など行えず長躯遠征してきたバルチック艦隊に対し、連合艦隊は十分な艦隊運動訓練と波浪の中での砲撃訓練を行って迎撃体制が完了していたのである。
ただ、敵艦隊がウラジオストックへの最短コースである日本海、つまり対馬海峡を通過するコースを選択するのか、それとも太平洋へ迂回し、津軽海峡、宗谷海峡を通過するコースを採るのか、大本営は迷っていた。ほぼ互角の戦力であるので艦隊を分割することになる多方面作戦はとれない。
大陸では圧倒的国力にものを言わせたロシアの反攻が予想され、折角奪取した制海権を奪われると日本の敗戦は濃厚となる。乾坤一擲の戦いを挑まざるを得ない東郷は、敵艦隊は対馬海峡を通過すると読んで連合艦隊を鬱陵島に集結。
持てる全ての戦力を投入し待ち受けていたのだ。
「浪高シ」と聞いた大本営は、訓練の差による勝機が生じたと喜んだと言われている。
沖ノ島は、福岡県宗像市にある宗像大社の神領で、島全体がご神体とされた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロの孤島である。
その沖合で1905年5月27日午後1時39分、連合艦隊旗艦「三笠」は戦闘旗「Z旗」を掲揚、以後2日間の夜間戦闘を含む激烈な戦闘行動に入った。
当時は無線通信こそ装備されていたが、レーダーなどは無く全く目視による照準であり兵の練度が勝敗を決した。特に夜間戦闘における水雷戦は、魚雷走行の有効射程距離の関係上、敵艦に極度に近接して発射離脱(ヒットエンドラン)を繰り返す、彼我ともに恐怖を催すすさまじい戦いであったという。
幸いにして過去に例のない大勝をした日本であるが、これは当時の国民をして未曾有の国難に際し、極度の窮乏生活に耐えても独立自尊を貫きたいと言う意志あっての事である。
その上で、日英同盟による有形無形のイギリスからの支援。
明治期の政治家の国家を想う私心のない毅然とした姿勢と、清濁併せ飲む成熟した外交能力。
維新以来戦い続けた将官の、豊富な戦闘経験。
それらが、当時のヨーロッパ最大の強国ロシア帝国が世界に誇ったバルチック艦隊を破る、全ての幸運を呼び込んだのである。
同年9月5日ポーツマス条約を結び日露戦争は終結した。
記念艦三笠 / 横須賀
日本海海戦は、大艦隊同士による艦隊決戦としては人類史上稀に見る一方的殲滅戦となった。
参加艦艇数:連合艦隊 主力艦27隻 他81隻、バルチック艦隊 主力艦30隻 他8隻。
損害:連合艦隊 水雷艇3隻沈没 戦死117名、バルチック艦隊 主力艦21隻沈没 戦死4830名。
これ以降は、航空機と艦艇、航空機と航空機による空母艦隊(機動部隊)同士の戦闘に変遷したが、その参加した艦艇数においてもこれを上回る戦は現在まで行われていない。
日本海海戦以前の艦艇同士の戦闘で最大の戦は、イギリスがナポレオンに率いられたフランス・スペインの連合艦隊をスペインのトラファルガル岬沖で破った、トラファルガーの海戦(イギリス軍33隻、フランス・スペイン連合軍44隻)である。
この戦ではネルソン提督の執った「ネルソン・タッチ」と呼ばれる敵艦隊分断戦法が有名であるが、日本海海戦では東郷平八郎提督の「丁字戦法」が勝因として喧伝されている。
これは、敵前での160度回頭という前例のない、と言うより無謀とも言える作戦である。
ネルソンも東郷も、緻密な計算の上に兵の練度と旺盛な志気を信じての行動であったと思われる。
ただし、東郷の掲げたZ旗「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」に全ての将兵が奮い立ったのに対し、ネルソンの掲げた「England expects that every man will do his duty. (英国は各員がその義務を全うすることを期待する)」の信号旗は、直接戦闘に関係のない信号であるとして他艦に伝達しなかったり、尊大な命令だとして無視し内容を伝達しなかった艦長まで出たと言う。
(勝利した後の評価では名文句であるとされている)
国柄、指揮官の人望、あるいは何かが違っていたのだろう。
イギリス国民は、トラファルガーで戦死したネルソン提督と、その戦勝を記念して、ロンドンのウェストミンスターにあったウィリアム4世広場をトラファルガー広場と改名。
中心にコリント様式の柱を建てその上にネルソン像を置いた。
一方、日本では東郷は神となり、各地に東郷神社ができた。
しかし、東郷本人は神として祭られる事は大変嫌だったようで、生前神社建立には反対だと言っていたらしい。
連合艦隊の旗艦を務めた戦艦三笠は、日本海海戦後不遇な運命を辿っていたが、1925年11月12日現在の横須賀に舳先を皇居に向けて固定され記念艦として残った。
しかし、大東亜戦争に敗れた日本では、三笠を保存する資力はなく、ソ連と占領軍であるアメリカによって見る影もない惨状を呈した。
ここでもイギリス人ジョン・ルービンによるジャパンタイムスへの投書で、国内外に大きな反響を呼び、アメリカ海軍ニミッツ提督の援助などを得、修復保存の運動が高まり現在の「記念艦三笠」となっている。
ネルソン像は敵国フランスの方角を向いているらしいが、横須賀の東郷像は遠く離れた戦場、対馬海峡を向いて立っていると言う。








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